宝永大噴火

 宝永大噴火は、西暦1707年(宝永4年)に起こった富士山噴火で、歴史上、最後の噴火といわれています。宝永4年は、東山天皇、江戸幕府は第5代将軍・徳川綱吉の時代です。綱吉といえば、生類憐れみの令など、悪政があったことで有名ですが、綱吉の時代は宝永大噴火の前には宝永地震もあり、自然災害が多く実はかなり苦労した将軍です。
 さて、宝永大噴火は、貞観大噴火とはタイプの異なる噴火でした。宝永大噴火の場合、地形を変えてしまうような溶岩の噴出はなかったものの、広範囲での降灰があり、江戸まで火山灰が降っています。そのため宝永大噴火は、かなり多くの記録が残されています。
 宝永大噴火で注目したいのは、その49日前に起きた宝永地震をはじめとする多くの地震があったことです。宝永地震は、マグニチュード8.6から8.8と推定あれ、東日本大震災のマグニチュードが9.0と決定するまでは日本最大規模の大地震でした。宝永地震以降も地震が頻発し、江戸でも噴火の前夜から、体に感じられる地震が続きました。
 そして多くの噴出物があったことも特徴的です。噴火が始まったのは、11月23日で、午前中に噴火が始まり、宝永大噴火の降灰は江戸まで届くほどでした。富士山近郊では、降下軽石が大量に落下、江戸でも火山灰が降ります。当初白かった火山灰ですが、夕方から黒色に変わり、火口近くには降下軽石、後にスコリア(多孔質の噴出物)が降りました。この軽石とスコリアは、現在の御殿場市から小山町までを覆うほどの規模で、後に深刻な飢饉の原因になっています。小田原藩領主・大久保忠増は、このため江戸に救済を願い出て、幕府直轄領となります。ちょっと面白いのは、幕府の政策で大名らから40万両もの復興基金を集めていることです。この復興基金は、残念ながら幕府の財政に流用され、実際に復興にまわされたのは16万両そうです。今も昔も政治は変わらないようですね。
 宝永大噴火について、詳細に様子が分かるのは、記録が数多く残っているからで、現在も富士山噴火の研究に大いに役立てられています。朝鮮通信使の待遇の簡素化や、シドッチ密航事件などで知られる新井白石は、当時江戸に住んでいて、噴火当時の江戸の様子を「折たく柴の記」に記しています。最初の降灰が白く、後に黒く変わったのは、彼の随筆から分かったことです。また、降灰によって江戸では長い間呼吸器系の疾患が増加し、江戸の人々を苦しめることになったのです。