貞観大噴火

 貞観大噴火は、西暦864年〜866年(貞観6〜8年)に起こった富士山の噴火活動で、記録に残っている限り、最大規模の溶岩噴出を伴う噴火でした。貞観大噴火が起こったとき、日本は第56代天皇清和天皇の時代。応天門の変が起きた頃です。ちなみに清和天皇のお孫さんの一人が、清和源氏の初代で、さらにこの人の子供の一人が、頼朝や義経で有名な河内源氏の初代です。
 さて、この貞観大噴火は大量の溶岩を噴出し、富士山北西の裾野まで到達、木々を焼き払い溶岩で覆ってしまいます。このとき流れた溶岩の上にできたのが青木ヶ原樹海です。また、富士五湖を作ったのもこの貞観大噴火です。噴火の前、実は4つしか湖がなかったのですが、その中で最も大きなせのうみという湖の大部分を溶岩が埋めてしまいました。そのせのうみで、かろうじて残された部分が、現在の精進湖と西湖です。本栖湖と精進湖、西湖と河口湖の距離に比べて、精進湖と西湖はかなり離れていますよね。その湖の間を、溶岩が埋めてしまったのです。また、本栖湖も本来はもっと大きく、この貞観大噴火の溶岩で今のサイズになったのだそうです。
 日本三代実録では、「富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。」と書かれています。軽く訳してみましょう。噴火の勢いが激しく、1、2里の山を焼き尽くし、また、大きな地震が3回。10日以上火の勢いが衰えず、砂や石が雨のよう。ついに甲斐国(山梨県)まで、火は達したということです。この噴火の様子は、駿河国(静岡)からのもの。そして元も被害が甚大だった甲斐国(山梨県)からの報告は2ヵ月後でした。同じく日本三代実録によれば、「駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并せ両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖、せ等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉。」というものでした。
 訳すると、富士山が大噴火し、溶岩が流れ出し本栖湖とせの海を埋めた。湖は熱湯になり、魚や亀も全滅、民家も埋まり、残った家にも人影は無い。今も火は河口湖に向かっている。これが噴火から2ヶ月後の様子。そして、溶岩が湖を埋める前には、大地震、雷と豪雨、雲や霧が立ち込めて暗闇になり、山と野の区別もつかなくなった。それからしばらく跡に先ほどの災異がやってきた。こんな感じです。噴火の直後には、甲斐国はとても報告できる状態ではなかったようです。